「ゴウさん!元気OKですか?」

 扉を開けると気さくなマスターがお決まりの言葉で俺を迎えた。
たどたどしい彼の言葉にほっとさせられる。

 10年余をここで過ごしているにしては、彼は日本語と言うものに不慣れだと思う。彼はこのバー「FOO」を始める前に英語教室で働いて
いたと言うことだから、その時の名残と言うかポリシーみたいなもので、「易々と日本語
は使わない!」ってな意図が作用しているのでは?なんてことを、勝手に想像してしまう。
「English and darts bar FOO」と言う看板で営業しているんだから、英語を売りにした店であったとしても何ら不思議なことでもない。

 中学生の頃にろくでもない教師に当たったせいで、俺は英語が苦手なのだが、そんな俺が英語を売りにするバーの常連になってしまっているのには、マスターのきさくな人柄が大きく影響していることは間違いなさそうだ。
「アイムファインやがなぁ!ボブはどないだっか?」
俺も関西弁にたどたどしい英語と言うにはあまりにもお粗末なカタカナをくっつけて返す。

 黒田剛介(クロダゴウスケ)と言うなんだか時代劇に出てきそうな俺の名前は、ボブには言いづらい名らしかった。だからこの店ではボブからも、常連客たちからも、「ゴウさん」
と呼ばれている。

 俺はと言うと、ボブの本名は知らない。彼の本名がボブ・サップみたいな名前であろうが、ボビー・オロゴンみたいな名前であろうが、俺にとってはどうでもよかった。彼に対する
興味が差ほどでもないと言うのではなく、「ボブはFOOのマスターで、過去に英語の先生を
していた」ってなくらいのデータがあれば、俺にとっては十分だからだ。
「ぼちぼちでんがなぁ!Thank you!」
堪能な英語に関西弁をくっつけてボブは俺に応じる。

 長く伸びるカウンターにはいろんな種類の洋酒のボトルだとかZippoなんかが並べられていて、店の奥の方ではdartsに興じる客が居る。歌のうまいヒロキと呼ばれるお兄ちゃん、ユーミン好きのミカと呼ばれるお姉ちゃん…、馴染みの顔も揃っている。

 カウンターの向こう側にはご機嫌なボブとシェーカーを振ってるナナミが居る。

 そうそう、英語の苦手な俺がこのバーで悠然とくつろげるのにはナナミの存在が大きい。「ナナミに会いたくて」とか、「この娘をどうにかして口説いてやる!」とか、そんな風な理由とは別の意味で、俺にとってナナミの存在は重要な位置を占めていた。俺が苦手と
する英語を、彼女はいとも簡単に操ってのける。俺より1回りくらい年下の小娘だけれど、さくさくと英語を使いこなしてボブとしゃべってる様は、英語が苦手な俺にとっては大人びた風格として
映った。
「ナナちゃん元気しとったか?めっちゃ久しぶりやなぁ!」
俺は手を伸ばして、カウンターの向こう側のナナミの手を握る。
「ほんまやねぇ。久しぶりやわ!ゴウさん何飲む?」
「ビール頼むわぁ。」

 そう応じながら俺はカウンターの端っこの席に座った。トイレにも近くて、ヒロキと一緒に音楽する時に弾くキーボードも近いこの席は、いつの間にか俺の指定席になってしまっていた。

 ナナミの作ってくれるグラスホッパーが飲みたい気もしたけど、とりあえずはビールをぐびっとやってからその後でチョコレートとミント味のカクテルを飲むことにした。
「上着…掛けとこうか?」

 ビールのジョッキを俺に手渡すと、ナナミは俺のコートを受け取って壁のハンガーに引っ掛けてくれた。それを半分ほど一気に飲んでから、俺はセブンスターに火を着けた。
「ナナミってのも通称やろなぁ?っとすると本名は菜々子か?いやいや、以外と富美子とか?梅子とか?そんなんやったらおもろいなぁ!千代美ってのもありか?」とか、考えてみる。

 ボブの名前がボブ・サップだろうがボビー・オロゴンだろうがかまわないのと同じで、ナナミの本名も何だってかまわないけれど、とにかく今はどうでも良いような事を考えて居たかった。

 ここのところ仕事上のごたごたで頭が痛かったから、ぼんやり頭を休めたかった。家に帰っても気持ちが休まらないなんて罰当たりなことを思ってるわけではないけれど、ここで酒を飲みながら時にヒロキと歌ったり、他の客たちと他愛ない話をしたりしながら過ごす…、頭を休めるにはここの空間は俺にとっては好ましい場所だった。

 俺は数日前から課長に命じられて気乗りのしない仕事をさせられていた。「職場の電話料金がここ2ヶ月平常の3倍にも跳ね上がっている。原因を調査せよ」ってなことで、ちまちまやってたわけだ。
どこかの課で業務上の都合で電話の使用が頻回になったんだろう、それならどこの課でどんな名目で利用したのか?さえ明確にすれば良いだけだから、別に気乗りがしない仕事でもなかった。

 ところが、精査して行くうちに、業務上の都合でどこかの課が電話を頻回に使用したのではなさそうな?怪しい雲行きになってきた。
「正当な業務上の使用とちごて、個人的な都合で誰かが使ったってことやな。使用やのうて
私用や!」、ってな駄洒落を言うこともできなさそうな風だった。他の課の奴が私用で社内の電話を使ってたんなら、がんがん突っ込むところだが、どうも俺の課の菊本と言う3年前に入社した新米がやらかしたであろう可能性と言うか、確信が濃厚だったから、俺の気も重くなったってわけだ。

 俺の気を重くした理由はもう1つある。彼が俺と同じ課に勤める新米であると言うことより
も、ずっと大きな理由が…。

 菊本は幼い頃からの俺の友で、俺の紹介で彼はここに入社した。幼い頃から彼と一緒に馬鹿をやったことだとか、大人になってから一緒に飲みに行ったり風俗店で遊んだこともある。余談だけれど、菊本の童貞卒業式をしてやったのは俺だったりもする。そんな数々の彼との記憶が、共有した時間の長さが俺の頭を痛めつけていた。

 無論誰がやらかしたとしても社の電話を私用に使うってなことは赦されることではないことは言うまでもないし、たとえ菊本がしたことだとしてもがんがん突っ込んで調査するのが俺の仕事だ。しかしながら、やっぱり知ってる奴が不祥事をしてるってのは…、それを知ってしまうことは…、菊本の不祥事を積極的に知る必要のある今の俺の立場は、快いものではなかった。

 俺はここ数日、過去からの菊本との数々の記憶たちと、そんな感傷にひたることを許してはくれない業務命令ってやつの狭間で悶々としていた。

「ゴウさん?…」
少し鼻に掛かった子猫みたいな声でナナミが言う。
「ヒロキが心配してたよ?ゴウさん今日は元気無かったな〜って。」
聞くところによれば、「一緒に音楽しよう!」って声を掛けづらいくらいに、物思いにふけっていた風だったらしい。空になったビアジョッキと灰皿の上で押しつぶされた吸い殻たちが、ナナミの言葉に説得力を加える。
「あっ、悪いな〜。詳しゅうには話せんけど、仕事でえらい頭痛いことあってな〜。おっ、ボブ!アイムソーリー、ドントマインドや!ナナちゃん、えっと…、仕事上で悩みがあるんやってボブに言うたってえなぁ!」
ナナミは流暢な英語でボブに俺のことを説明してくれた。

 ボブもナナミも「どんな悩み?」とか「どないしたん?」とか、深くは詮索してはこない。かれらはいつでも誰に対してでも、よけいな詮索はしない。そんな気遣いがこの店を居心地の良い空間にしていると改めて思う。

 客はいつの間にか俺1人になっている。そう言えば、まだグラスホッパーも頼んじゃいない。俺はここに来た時は必ずグラスホッパーを飲むことにしている。

 以前、知人が営む新地のバーで巡り会って以来、チョコレートの甘さとミントのさわやかな味が同居しているこいつが気に入ってしまった。

 チョコレートのリキュールとミントのリキュールと生クリームを同量ずつシェーカーに入れて作るのだけれど、俺の運が悪かったのか方々のバーに行く度に「グラスホッパーある?」ってオーダーしてみたけど、たいていの店で「すみません、生クリームがありませんので」ってな具合で
飲めずにいた。えせバーなんかになると、「グラスホッパーとは?」ってバーテンから尋ねられたことだってあるくらいだ。

 ボブの店に初めて来た時にはグラスホッパーは無かったのだけれど、次に訪れた時には「ゴウさんに飲んで欲しくて」って言って、きっちり材料を揃えてくれていた。
「ナナちゃん、グラスホッパー作ってえなぁ!さくっと飲ませてもろて、もやもやした気持ち切り替えんとあかんわぁ。」

 ナナミは今俺が言ったことをボブに伝えながら、シェーカーに氷やら生クリームやらリキュールを入れる。
「ナナちゃんstopね。」

 ボブはナナミの手を止めて、小声で何やら言っている。「special drink」がどうとか、「magical and miracle」だとか、俺にはそんな言葉しか聞き取れなかったけれど、カクテルの話をしているらしいことは推測できた。
「ゴウさん、ボブがねぇスペシャルなカクテル作ってくれるんやって。ゴウさんに飲んで欲しいんやって。」

 「FOO」に頻繁に通うようになってから、俺は時々新作のカクテルの試飲をする機会があったから、今日もその類の提案だと思った。新しいカクテルが飲めることは嫌ではなかったし、今までだって飲めないような代物を突き出されたことはなかったから、「そっかー、楽しみやなぁ!」って応じた。

 やがて、ショートカクテルのグラスに入れられた液体が目の前に置かれた。グラスホッパーと同じ薄い緑色をしているのは、作りかけのグラスホッパーに手を加えたからなのだろう。香りもグラスホッパーのそれと差ほど変わりないように感じる。
「リラックスした気持ちでこれを飲むと、ゴウさんの心の中に居る今1番会いたい人に会えるんやってぇ!」、ナナミはそう言いながら悪戯っぽく笑う。

 ボブは俺の後ろから大きくて温かい掌を俺の肩にそっと添えて、「ゴウさんrelaxですね。OK
ですか?」って優しく話し掛けてくれた。

 会いたい人に直ぐに会えるカクテルなんてのがあったら、探偵事務所の人捜しの依頼は激減するだろう。俺の住んでるマンションの雑居ビルにある探偵事務所は毎日明かりがついてるし、会いたい人に会えるカクテルってのはボブの気の利いた冗談なのだと分かる。

 分かりきった冗談だとしても、へこんでいる俺のことを心配してくれてのことだし、ここはボブの冗談に乗るのが粋な振る舞いだ。
「マジかいなぁ!リラックスして、これを飲ませてもろたらええねんな?」

 そう言いながら薄緑色のカクテルを口に運んだ。甘口の中にすっきりしたミントの味が混ざっている。グラスホッパーに似た味だけど、いつも飲んでるやつより深みのある味でとろみのある
舌触りだ。 飲めば飲むごとに体が温かくなる。ほんのり酔った時の頬に感じる温もりとは少し違う。温かで柔らかい日差しの中に包まれているような感覚だ。
「one two three!」

 そう言いながらボブは空に四角の窓を描いた。椅子に座っているはずの俺の体が安定しなくなる。ぐにゃぐにゃの空間に無理矢理に椅子を置いて座っているような感じだ。
「落ちてしまう!」、そう思って椅子の脚に自分の足を絡めてへばりつく。ボブが描いた大きな窓から徐々に吸引力がかかる。

 気付くとはるか下の方からボブとナナミがにこやかに俺を見送っている。俺はふわふわと上空に引き上げられていたのだった。

 ボブとナナミは俺に何か言っているけれど、もうその声は聞こえない。「ああ、「行ってらっしゃい!」って言うてくれてるんかいなぁ!」、何となくそう思った。

 どれくらいの時間が経ったんだろう。一瞬のようでもあるし、ずいぶんと長い時間が経過していたようにも思える。俺は体と言う窮屈な実態を抜け出してまばゆい光の渦の中に漂っていた。

 臭いがする。草や土が太陽に蒸される臭いやら、小さな駄菓子屋の菓子類とプラモデルなんかの箱のインクの臭いだ。草原や駄菓子屋で遊んだ懐かしい記憶が蘇る。それと共にじくじくと胸が痛む。
「この痛みは何だ?」どうして?胸が痛いんやろ?」、細い糸で心臓の中心をきゅっと締め上げられるような痛み。俺はその原因を意識の中で探していた。

 切なくて胸が痛むのか?それとも何かの罪悪感から胸が痛むのか?…、あれこれ考えてみる。いや、何故俺の胸が痛いのか?その答えはもう俺の心の中に息づいていた。
何故?どうして?って答えを探すふりをして、俺はその答えから目を反らしていただけだった。

 岡島昭子だ。草原の臭いや駄菓子屋の思い出と胸の痛みを伴ってイメージされるのは、昭
子以外に考えられない。

 岡島昭子は、俺の母がパートに行っていた先の娘だ。

 母に連れられて岡島家に度々出入りしていた俺は、1つ年下の昭子と親しくなるのに差ほどの時間はかからなかった。

 昭子との関係は、互いに小学生だったこともあり、無邪気なものだった。ドングリ拾いだとか、駄菓子屋巡り、楽しい時間がずっとずっと続く!と信じて疑いもしなかったあの頃。

 親しくなった俺と昭子は、互いの家を行き来するようになり、時にはキャンプにでかけたり、彼女が俺の家に泊まりに来るようなこともあった。
「昭ちゃんは女の子、あんたは男の子なんやから、別々に寝なさいよ。」、ある日母が俺にそう言った。年頃になりつつある2人に配慮してのことだったのだろう。

 昭子が俺のことをどう思っていたのかは分からないけれど、その頃の俺は昭子を朧気ながら「初恋」の対象として見ていた。母が俺を制したのは、直感的に俺の初恋を察知していたからかも
しれない。

 俺の部屋には親戚から譲り受けたダブルベッドが据えられていたのだが、「ベッド広いんやから一緒に寝ようよ。」ってせがむ昭子に酷く困らされたものだった。
「お母さんから言われてるから昭ちゃんと一緒に寝られへん。」、なんてことはマザコンみたいで、死んでも言えなかったし、母の言いつけとは逆に、俺はずっと昭子の側にいたかった。

 結局のところ、昭子の寝顔を見ながら、ダブルベッドに上半身を預けて、眠る眠らずの一夜を明かすはめになった。「こうしておけば万一母に見られた時に、夜更かしがすぎて疲れて寝てしまったのだろうと思わせることができる」、そんな幼い浅知恵だった。

 彼女の甘い香りの側にいられる、それだけで幸せに思えたし、どきどきした、

 俺より背が高い昭子から見下ろされる格好で歩くことが照れくさかったし、そのくせ彼女と一緒に他の友達に会う時なんかは訳もなく誇らしい気持ちに包まれていた。別に恋人でもないのに、明確に「昭子が好きだ!」と意識したわけでもないのに、彼女と一緒に過ごせることを自慢げに
思っていた。

 永遠に続くと思われた昭子との楽しく幸せな日々は、ある日、突然に中断されてしまった。俺が昭子にふられただとかそんなのではなく、いや、むしろ失恋して俺と昭子の縁が途切れた方が良かったと、そう願いたくなるような形で…。

 昭子はあの時泣いていた。何の前触れもなく告げられた昭子の母親の訃報。3日前に元気に話したはずのおばさんは沢山の花に囲まれて眠っている。

 俺は昭子の手を握って「元気出せよ!」なんて静かに言うしかなかった。「昭子を護りたい!」
「彼女の力になりたい!」って、こんな悲しい時にそう思える自分が不謹慎に感じたし、そんな自分の気持ちとは裏腹に、中学生になったばかりの俺には何の力も備わってはいないことが歯痒かった。

 苦い記憶と共に封印されていた昭子と俺の時計が再び動き出したのは、それから13年後のことだった。ふらりと立ち寄った焼鳥屋で、思い掛けず彼女と再会できたのだった。

 俺は家族と、昭子は女友達と、互いに連れが居たと言うこともあって、その時はただただ再会を喜び合い、後日2人で会う約束をして別れた。

 大阪の繁華街で昭子と待ち合わせたのは、クリスマスに近い冬の日だった。せっかく憧れの娘とデートするのだから綿密にプランを練れば良かったのだけど、俺はあえて古めかしい鍋屋を選んだ。

 この店は、俺が行き慣れてた場所でもあるし、よほど混み合ってでもいないかぎりは確実に個室に通してくれる。

 洒落たレストランになら次の機会にでも行けば良い。今日は誰にも邪魔されずに、しっぽり2人で話したかった。停まってしまった2人の時を再開させるには無数の言葉を紡ぐことが必要なように
思えた。

 俺が結婚してうまく行かなくてごちゃごちゃもめて離婚していた頃、彼女も叶わぬ恋の渦中で苦しんでいたこと…、互いの人生の紆余曲折を話した。人生を語るには若すぎる2人だったけれど、それなりに一生懸命に生きてきた互いの時間を交わし合い、共有するだけで満たされた。

 涙したり、笑い合ったり…、ラストオーダーで店を出なくてはならなくなるまで、2人の話しは尽きなかった。

 ラストオーダーで店を出されたからと言って、昭子とこのまま別れるのは名残惜しかった。場所を変えてもう少し話そうと提案すると昭子もあっさり応じた。

 ジャズバー「saint mark」、ここはジャズの生演奏が聴ける俺の切り札みたいな場所だ。切り札ってよりはムードの良い手札がここしかなかったってのが正直なところだったのだが…。

 2人並んでソファに座る。真正面にジャズバンドってな具合の席だ。時々ここに来ることはあった
けれど、こんなに良い場所に陣取れたことはなかった。

 鍋をたらふく食って満腹だったから、軽いつまみと適当なカクテルを選んだ。

 昭子は頬杖をついてテーブルのキャンドルライトを見つめていた。時々リズミカルなスイングジャズに合わせて軽く体を揺らしているくらいで、何かを言おうとするでもなく、じっとしている。
「どうした?」

 昭子の腕に手を添えて、そっと言ってみる。
「音楽、…、聴いてるの。」

 幼い頃から元気でからっとした昭子の記憶しか持ち合わせていない。そんな俺が初めて聞く甘いささやくような声だった。俺は昭子の腕に添えていた手に少しだけ力をかけて、こちらへ引き寄せた。「今だけこうさせて?」

 昭子はそう言いながら俺の胸に顔を埋めた。
「いろいろあって辛かったんか?そやけど、昭子はお母様の分まで幸せになりなよ。」
「うん、私ママの分まで幸せになるよ!」

 昭子は涙声でそう応じた。
「俺らまだまだこれからやしなぁ!頑張ろうぜ!」

 腕の中で昭子は頷いた。ジャズバンドはちょうど「white christmas」を演奏している。
「♪I'm dreaming of a white Christmas
♪Just like the ones I used to know
♪Where the treetops glisten and children listen
♪To hear sleigh bells in the snow.
♪I'm dreaming of a white Christmas
♪With every Christmas card I write
♪May your days be merry and bright
♪And may all your Christmases be white.」

 英語が苦手な俺にしては、ぴかいちの発音で、優しく歌えたと思う。
「朝まで一緒にいようか?」
彼女の耳元に囁いてみる。
「だめっ、もしも明日の朝まで一緒に居てしまったら…、剛介(ゴウスケ)と今までみたいに何でも話せなくなってしまうから…。素敵な友情が壊れるの、嫌なの。」

 昭子はしっとりした口調ではあるけれど、きっぱりと俺にそう言った。

 淡い期待がなかったか?と問われれば、7割方「今夜は一緒に過ごすだろう」なんてふんでいた。俺はそんな期待を打ち砕かれたのだけれど、「ふられた!」とか「失恋しちまった!」とかの類の気持ちは不思議と起きなかった。
「ああ、そうやな!これからも…ずっと、…、ええ友達でいような!」

 その2年後、昭子は逝った。母親と同じく急な最後だったと知人から聞かされた。大きな喪失感はあるのに、涙は一筋もこぼれなかった。人伝で聞かされたって、そんなことは信じられるはずもない。

 俺は昭子にMailを出した。馬鹿げたことだと笑われるくらいに滑稽な振る舞いだったけれど、彼女がもうここには居ない!その現実を受け止めるには他に方法が見出せなかった。
> 貴方へ
<> Date> Tue, 29 Feb 2000 20:48:28 +0900 (JST)> <> From> ZVT10477@nifty.ne.jp> <> To> xxxxxxxx@xxx.so-net.ne.jp> > 貴方がもう、ここに居ないと聞かされました。
> 最初我が耳を疑いました。
> 貴方とは1年ちょっと前に思いがけずお会いし、たった1度デートして下さいましたね。
> 幼い頃、ちょっぴりあこがれていた存在の貴方と難波を歩いて、飲んで・いろんな話ししまし
たね。
> 今から12〜13年前、貴方と最後にお会いした時、そう、あれは貴方のお母様の告別式でし
> たね。
> 貴方の涙顔を見てそのままお別れしました。
> 当時、貴方のことが、気がかりで何か力になってあげたい!!ってそう思っていたんですよ。
> それから、本当に長い時間が過ぎ、あの時貴方と再会できました。
> 貴方と私が会えなかった時間を埋めるために、沢山話ししましたね。
> 私が結婚して、うまく行かなくて離婚したこと・貴方の恋の話し…。
> 二人で話して手握り会って涙しましたね。
> 「二人ともこれからやなっ!」って互いに幸せになろう!って約束しましたよね。
> 「お母様の分まで幸せ掴むんだよ!」って言いながら私は貴方を抱き寄せました。
> 貴方は私の腕の中で「わかった。ママの分まで私幸せになるよ」って小さな声で言ってくれた
> よね。
> とても、すてきな夜でした。
> だから貴方がお母様と同じような状況で逝かれた…、なんて何度聞かされても心に落ちて来な
> いんです。
> きっとこのMailが宛先不明で私の所に帰って来る時、デジタル的に貴方が遠くに行かれたこと
> を受け止めるのだろうと思います。
> そんな方法でしか貴方とのお別れを受け止められない私をご理解下さい。
> では、今日はこの辺で…。
>           貴方の永遠の友達 剛介(ゴウスケ)

 そして、俺の心の中には確信のない罪悪感みたいな固まりが据えられた。あの日、昭子とデートした日、俺の家族は祖父の葬儀に参列するため、熊本へ向かっていた。俺は前々から昭子との約束を取り付けていたものだから、熊本へは行かなかったのだ。
「俺があんな罰当たりなことをしたから…昭子は…」、短絡的ではあるけれど、そんな考えが脳裏を過ぎったことは嘘ではない。

 気が付くと、俺は光の渦の中をくぐり抜けて、…、来たこともない場所に降り立っていた。
降り立っていたってのがとてもぴったりくるような感覚だ。さっきまでは光の渦の中で浮
遊感を感じていたのに、今はそれがない。しっかりと地に足を着けて立っている。

 どこか、俺の知らないマンションのエントランスのようだ。
「剛介!(ゴウスケ)」

 背後からぽんと肩を叩かれる。振り返ると昭子が居た。俺を見下ろす格好で、昭子が居た。
「…!」
「会いに来てやったぞっ!」

 あの時と同じ笑顔だ。初めてで最後になってしまったデートをしたあの日、別れ際に「バ
イバイ!」って手を振った時と同じ笑顔だった。
「会いに来てやったってのとはちょっと違うかなぁ!ここ、私の部屋やもん。」

 そう言いながら、昭子は俺をエレベータに押し込む。

 今にも溢れそうなくらいに、言いたいことは沢山あった。だけど、それを言おうとすると…、いや、言葉を口にする前に泣いてしまってめちゃくちゃになりそうだった。

 俺はずっと泣いていなかった。あの時、昭子を永遠に失ってしまったあの日から。だから、怖かっ
た。口を開けば、それをアイズに涙のダムが決壊しそうだったから…。

 3階にエレベータが停まる。フロアは両サイドに2部屋ずつ、正面に2部屋、合計6部屋の配
置になっている。

 昭子は一番奥の右手のドアを示した。
「さっ、どうぞ。入った入った!」

 1Kの小さな部屋、これと言った装飾品は置かれてはいない。ただ、頭上にあるロフト部分にはぬいぐるみがごちゃごちゃと寝そべっている。ロフトに幸せそうに寝そべる彼女らの存在が、かろうじてここが女性の部屋であることを示していた。
「お腹空いたでしょ?さくっとポトフ作ってみたねん。食べて?」
「…」
「そう言えば初めてでしょ?私の作る料理…。沢山食べて、いっぱい話ししようよ?…あの時…みたいに…」
言いながら昭子はポトフをテーブルに並べた。
「どう?美味しい?」
「…」

 昭子はめちゃくちゃにおしゃべりだった。そんな気がした。俺は何から伝えれば良いのか?どんな風に話したら良いのか?溢れる言葉を持て余しているのに、…、昭子はそんな俺のことなんてお構いなしだ。なんだか不愉快な気分になる。
「…」
「どうしたの?どうして何もしゃべってくれへんの?」
ポトフをかき込んでいる俺に、昭子は不安げな視線を向けた。
「怒ってるん?」
「ああ!」

 憮然とそう言うしかなかった。テーブルにそっと置いたはずのスプーンが俺の気持ちを投影しているかのように大きな音を立てる。

 勿論昭子と会えたことは嬉しい!嬉しいに決まっている。だから、何もこんな風に不機嫌になる理由はない。

 せっかく会えたのだから、それがたとえ夢だったとしても、幻や亡霊みたいな存在だったと
しても、微笑んで「久しぶり!」って握手して…、それから抱きしめたってかまわないはずだ。

 昭子だってそれを拒むはずはないだろうし、にこやかに会って話がしたいと望むから、ここに舞い降りてくれたのだから…。
「聞かせて?剛介(ゴウスケ)が怒ってる理由。ね?聞かせて?」

 昭子は優しい口調でそう言った。

 俺もさっき「怒ってる?」って訊かれて「ああ!」って声を出してしまったことで、心のブレーキが外れてしまったみたいだ。
「おまえなぁ!ずるいでぇ、めっちゃ!突然に、しかも勝手にでてきやがって…、ええっと…、それ以前に勝手に俺の前から消えやがって…。恋人とかなぁ、家族だけが、おまえのこと思ってるんとちゃうんやぞ!俺にかておまえのこと思う権利くらいあるやろがっ!」

 かなりの大声を出してしまったはずなのに、昭子は驚くでもなく、俺の話を聞いている。
「おらんようになる時も、それからー、出てくる時もなぁ、俺には何の準備もさせてくれ
へんやないか!?そんなんやから「バイバイ」も「お帰り!」も言う手あげられへんねや
ないかぁ!」
「うん、…、分かってるよ。」
「俺なぁ、再婚したんや!4歳の息子もおる。」

 俺は、溢れる涙を止めることができなかった。携帯を開いて息子の写った待ち受け画面を昭子に示した。
「分かってるよ!知ってるよ!」
「それからなぁ!俺おまえがおらんようになった後、おまえにMail書いたんや!返事が帰ってけえへんから、それで…それで…やっと納得したんや!おまえのこと…」

 昭子の腕が俺の方に伸びて来る。
「知ってるよ。そんなの全部知ってるよ!」

 昭子は俺の頭を胸の中に抱いた。温かかった。昭子の温もりに包まれながら、首筋に冷たさを感じる。俺の首筋を冷たくしているのは、…、それは昭子のこぼした涙だ。彼女も泣いている。
「俺、あの日…、昭子とデートしてもろた日なぁ、爺さんの葬式やったんや。俺、それをすっぽかして…、貴方と会ってた…。」
「…」
「そないな罰当たりなことしてしもたから、…、貴方が…、しっ…」
「死んだんとちゃうかな?って、剛介(ゴウスケ)は思ったの?」

 昭子の掌は俺の背中を優しく叩いている。
「…」
「あほやねぇ!それは違うよ。そんなことで引っかかってたの?それが傷になってて、貴方はずっと…何があっても泣けなかったの?」

 俺の背中を叩く昭子の手は、まるで俺の凍っていた心の一部分を溶かしてくれる魔法の
ようだった。「もう過去に縛られなくても良いよ。貴方の心を解放してあげて!」、昭子の掌は確かにそう言っていた。

 胸が詰まる。喉に何か熱いものがこみ上げて来る。

 嗚咽と言う言葉がぴったりするくらいに、俺は泣いた。昭子を失って以来、どんな種類の悲しみに晒されても決して流さなかった涙ってやつを、一気に吐き出した。
「いろいろあって辛かったの?でもね、貴方は私の分まで幸せになるの。そうしてもらわないと私困るし、悲しいもん。私が死んだのは誰のせいでもあらへんのよ。簡単に言ったら「運命」、ちょっぴり難しく言うと「宇宙の決まり事」なの。貴方には分かるでしょ?」

 過去に起きてしまったことや、今起きていることの全てに何かしらの意味がある。意味ある全ての出来事たちが複雑に絡み合って、それが大きく広がり、宇宙全体を作り上げている。

 例えば、俺がうっかり茶碗を割ってしまったその瞬間に、宇宙のどこかで小さな星が生まれてるとしたら、俺が茶碗を割ってしまったことにも意味があるし、茶碗がそれ自身の寿命を終えたことと小さな星の誕生との間に必然性が見出せる。

 にわかに信じがたいことだけれど、宇宙全体はそんな風な連続で成り立っている。

 昭子はそんなことを話してくれた。
「哲学の授業みたいやなぁ。」

 いつしか俺の嗚咽も収まっていた。
「よしっ!授業終わりにしよっかぁ!朝になったら…、私…帰らなあかんし…。しんみりするより、楽しい方がええもん!せっかく会えたんやしねぇ」

 昭子と過ごせる時間が徐々に削られて行く。聞きたくないことだったけれど、どのみち期限付きの時間なら楽しまないと!ってのは俺も同感だった。
「岡島先生!哲学の講義ありがとうございました」

 2人で声を立てて笑った。笑い合いながらふざけてじゃれあった。幼い頃に2人でそうしていた時のように。

 ひとしきりじゃれて、疲れて、息が荒くなると、…、2人の間に沈黙の霧が降りた。時計の
音だけが、空気を静かに揺らしている。

 そして、…、互いの目と目が合ってしまったのをアイズに、俺たちは床の上に倒れ込んだ。俺が昭子を誘ったのでもなく、昭子が俺を誘ったのでもなかった。

 たけり狂った欲望だとか、淫猥な雰囲気はそこにはなかった。互いの肌の温もりがもっとも
近くて、もっとも強く感じられる、その手段として当然取るべき動作であるかのように、静かな時間が流れ、…、はじけて…、2人は動きを止めた。
「俺、すっかりおっさんになってしもたよ。腹も出てきたしなぁ」
「ぜんぜんおっさんとちゃうよ。めっちゃ元気で…、優しかった。ありがとう…」
昭子は俺の胸の中でくぐもった声でそう言って、くすっと笑った。
「ごめんね。私天使やのに、ちゃんと護ってあげられへんで。」

 昭子の長いしなやかな指が俺の脇腹の傷をなぞる。2年前に交通事故で負った傷だ。
「修行が足りんなっ!次はちゃんと護ってくれよ。」

 俺は彼女の長井つややかな髪を撫でながら冗談っぽくそう言った。
「ねえ、何か歌って?」

 クリスマスはとっくに終わってしまっているし、「何を歌ってやろうか?」、暫く考えてみる。
「♪急いでばかりいないで
♪時には立ち止まり
♪回りの人の影法師
♪踏んでみませんか
♪足下から花が
♪手のひらから風が
♪うなずき返して
♪くれるでしょう
♪ねえ気がついて
♪幸せは
♪あなたの心ひとつで
♪見つかるわ
♪ねえ気がついて
♪幸せは
♪あなたの心ひとつで
♪見つかるわ
…昭子、おかえり!会いに来てくれてありがとうな!」

 やっと言えた。それはエレベータの前で昭子と会った時に最初に言いたかった言葉だった。
「ただいま!それから…、歌ありがとう。懐かしいねぇ!」

 幼い頃の思い出が呼び起こされたのだろう。彼女はまた泣いていた。歌は、それが良いメロディーであればあるほどに、過去の記憶と結びつきやすい性質を持っているように思う。

 俺も歌いながら幼い日のことを思い出していた。俺が今歌った歌は、昭子が幼い頃に夢中になって観ていたTVアニメ「レディジョージィ」のオープニングテーマだ。俺も昭子の影響で「レディジョージィ」にはまった。「レディジョージィ」を観ているだけで何だか昭子と会っているような錯覚を覚えた。
「…」
「…」

 幼かったあの日の昭子。

 キャンドルライトに照らされてた大人になった昭子。

 そして…、今腕の中に居る昭子。
3人の昭子を、そっとそっと抱きしめた。

「生きてる人はね、何があっても、…、どんな失敗をしてしまっても、やり直しがきくんだよ。そう言う力が生きてる人には誰にだってあるの。」

 通勤ラッシュに揉みくちゃにされながら、俺は昭子の言葉を思い出していた。
「歌ってくれたお礼」って言って、彼女が教えてくれたことだ。俺にも、菊本にも、そして今を生きる全ての人に…、挫折やら困難から立ち上がる力が備わっている。

 その力を発揮して今を精一杯に生きることは、逝ってしまった人たちの意志を受け継ぐ
作業なのだ。

 電車の窓外は小雨がぱらついているけれど、何だかすがすがしい気分だ。俺は昭子と再会できたことで、過去の呪縛から開放されたような気がしていた。
「また会おうね!」、俺を見下ろす格好で別れ際に昭子はそう言って悪戯っぽく微笑んでいた。

 俺の心の中に新しい昭子の笑顔が、極上の笑顔が鮮明に刻まれている。